寺院紹介万松院の歴史・施設紹介など

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万松院の仏さま

仏さまは、分け隔てることなくすべての人達の幸せを願っています

【釈迦牟尼仏】
すべての者を救うために仏教を開き、私達に心の教えを説いてくださった方(実在した人間)です。
【文殊菩薩】
文殊とは仏の智慧を象徴しています。智慧とは、仏様の物の見方・考え方のことです。私達にも仏の智慧がわかると、花の咲く人生・実りある人生を送ることができます。
【普賢菩薩】
「普く賢い者」の意味であり、あらゆる所に現れて仏の慈悲の心と優れた知識で命あるものを救うといわれる行動力・実践力のある菩薩様です。
【聖観世音菩薩】
数多くの観音様の中の基本となる観音様です。観音様はすべての人に合わせて何通りにも姿を変えて個人を救済します。
【水子地蔵菩薩】
この世に生をうけなかった水子の供養をするお地蔵様です。
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臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派(みょうしんじは)天授山(てんじゅざん) (ばん)松院(しょういん) 歴史(れきし)

  • 1613年(万歴(ばんれき)41年)

    琉球(りゅうきゅう)王家(おうけ)第二(だいに)(しょう)(うし)菩提寺(ぼだいじ)である円覚寺(えんかくじ)首里(しゅり))。その円覚寺(えんかくじ)住職(じゅうしょく)()(おう)周航(しゅうこう)禅師(ぜんじ)住職(じゅうしょく)引退(いんたい)してから、現在(げんざい)(ばん)松院(しょういん)付近(ふきん)に『(がん)頂山(ちょうざん)(ばん)松院(しょういん)』というお(てら)()てて、隠居寺(いんきょでら)としてそこに()んだ。

  • 1683年(康熙(こうき)22年)

    カ翁周航禅師(かおうしゅうこうぜんじ)()てた(がん)頂山(ちょうざん)(ばん)松院(しょういん)三代目(さんだいめ)住職(じゅうしょく)脱心祖穎(だっしんそしゃく)禅師(ぜんじ)(とき)当時(とうじ)(りゅう)(きゅう)(おう)(しょう)(てい)(おう)冊封(さっぽう)正使(せいし)(おう)(しゅう)琉球(りゅうきゅう)にやってきた。その(とき)(おう)(しゅう)によって(がん)頂山(ちょうざん)(ばん)松院(しょういん)妙法山(みょうほうざん)蓮華院(れんげいん)寺名(じめい)(あらた)め、その蓮華院(れんげいん)脱心祖穎(だっしんそしゃく)禅師(ぜんじ)から弟子(でし)徳叟(とくそう)(そう)()禅師(ぜんじ)()()がれた。また脱心祖穎(だっしんそしゃく)禅師(ぜんじ)のもう一人(ひとり)弟子(でし)東峰元(とうほうげん)(じん)禅師(ぜんじ)(ばん)松院(しょういん)寺名(じめい)(ゆず)り、東峰元(とうほうげん)(じん)禅師(ぜんじ)首里(しゅり)崎山(さきやま)(ちょう)草庵(そうあん)(ちい)さな簡易的(かんいてき)(いえ))を()て、(あら)たに天授山(てんじゅざん)(ばん)松院(しょういん)(しょう)した。そして(のち)場所(ばしょ)首里(しゅり)崎山(さきやま)(ちょう)から名護(なご)(うつ)した。名護(なご)のどこの場所(ばしょ)にお(てら)(うつ)したのかは正確(せいかく)にはわからないが、南島(なんとう)風土記(ふどき)によると名護(なご)()東江(あがりえ)のジンガ(むい)南方(なんぽう)寺山(てらやま)(しょう)する(ところ)にあったのではないかと(しる)されている。

  • 1706年(康熙(こうき)45年)

    東峰元(とうほうげん)(じん)禅師(ぜんじ)は、国頭村(くにがみそん)奥間(おくま)(しょう)(うじ)国頭親方(くんじゃんうぇーかた)朝稘(ちょうぎ)()奥間(おくま)民衆(みんしゅう)協力(きょうりょく)()て、民衆(みんしゅう)無病(むびょう)息災(そくさい)子孫(しそん)繁栄(はんえい)(ねが)経塚(きょうづか)建立(こんりゅう)した。 (奥間(おくま)金剛山(こんごうざん)にその(きん)石文(せきぶん)現存(げんぞん)している。)

  • 1719年(康熙(こうき)58年)

    (しょう)(けい)(おう)冊封(さっぽう)副使(ふくし)徐葆光(じょほこう)琉球(りゅうきゅう)にやってきた。徐葆光(じょほこう)東峰元(とうほうげん)(じん)禅師(ぜんじ)会う()ために名護(なご)にある(ばん)松院(しょういん)()かったが、途中(とちゅう)断念(だんねん)した。その(とき)徐葆光(じょほこう)心情(しんじょう)が『中山伝(ちゅうざんでん)信録(しんろく)』に「天授山(てんじゅざん)(ばん)松院(しょういん)歌爲(かとうほう)東峰上人賦(しょうにんのためにぶやくす)」として(しる)されている。徐葆光(じょほこう)東峰元(とうほうげん)(じん)禅師(ぜんじ)一度(いちど)()うことはできなかったが、「天授山(てんじゅざん)」の扁額(へんがく)東峰元(とうほうげん)(じん)禅師(ぜんじ)(ぞう)(てい)された(現存(げんぞん))。どのような経由(けいゆ)東峰元(とうほうげん)(じん)禅師(ぜんじ)(わた)ったのかはわかっていない。



天授山(てんじゅざん)(ばん)(しょう)院歌爲(いんかとうほう)東峰上人賦(しょうにんのためにぶやくす)

(わたし)徐葆光(じょほこう))は、中山(ちゅうざん)首里(しゅり))に(ばん)松院(しょういん)という(てら)があり、以前(いぜん)には()き(脱心祖穎(だっしんそしゃく)禅師(ぜんじ))という名僧(めいそう)がいたと()いた。(かれ)は、()得意(とくい)(そう)(ばい)(そう)(じつ)一緒(いっしょ)三人(さんにん)でよく詩歌(しか)(つく)っていた。(げん)(そう)(えい)(のこ)した(はく)雲集(うんしゅう)(つた)わってくると、それを手本(てほん)とした。(わたし)はこの琉球(りゅうきゅう)で、ともに(あそ)(うた)(つく)ろうと(おも)って(うみ)()(さが)しにきたのに、それもかなわない。(おう)(しゅう)(しる)したときからもう三十年(さんじゅうねん)以上(いじょう)たってしまい、()ることが(おそ)かったのを(なげ)くばかりである。(いま)では(ばん)松院(しょういん)蓮華院(れんげいん)()(あらた)め、老僧(ろうそう)たちは()んでしまいこの()にいない。ものみ(だい)(した)(たか)くそびえる(まつ)(かな)しげに()(かぜ)(おと)()きながら老僧(ろうそう)たちのことをいくら(おも)いしのんでも、(ふたた)()(かえ)ることはないのだ。あっちこっち(たず)(ある)いて(かれ)らの(のこ)したものを(さが)したが、遺骨(いこつ)さえあとかたもないようにすべて(なに)もない。もう白髪頭(しらがあたま)法嗣(ほっす)東峰(とうほう)(いん)名護(なご)(ひら)(ばん)松院(しょういん)とした。
自分(じぶん)は、(ゆき)大理石(だいりせき)がうすい水色(みずいろ)(ひろ)がるとてもこうごうしい(ところ)()んでいると(みずか)()えるような(ところ)である。(わたし)は、名護(なご)(ばん)松院(しょういん)には()けなかったので()()せてもらうと、それは奥深(おくぶか)いものがあった。一語(いちご)一語(いちご)があざやかですばらしく、筆跡(ひっせき)力強(ちからづよ)かった。(わたし)自分(じぶん)見識(けんしき)(せま)かったことを()った。それほど独特(どくとく)雰囲気(ふんいき)があるものだった。(わたし)仕事(しごと)(ばん)()(たび)し、水路(すいろ)陸路(りくろ)(きわ)めようかと(おも)(ほど)だが、それでも山海(さんかい)のすべてを()ることができたというわけではない。くつがぼろぼろになってしまい、名護(なご)(ちか)くまで()たのにそこには()けない。しかし、ともに(かた)りたく(こころ)はもうそこへ()んでいっているのだ。(はく)雲集(うんしゅう)には古詩(こし)()っており、(いん)(うつ)しても詩作(しさく)(こころざし)はずっと(つづ)いていく。法師(ほうし)にめんどうを()って(さら)()()せてもらう。その()は、(おお)くの(たに)背景(はいけい)に、松風(まつかぜ)(そら)(たか)くから()ちる(たき)(みず)()くように()いているものだった。


徐葆光(じょほこう)

(しょう)(けい)(おう)冊封(さっぽう)副使(ふくし)中国(ちゅうごく)長州(ちょうしゅう)(ひと)
1719年に来琉(らいりゅう)滞在(たいざい)は約八か月。
歴代冊封使中(れきだいさっぽうしちゅう)もっとも(おお)くの()(のこ)し、(しょ)にもすぐれ、「中山(ちゅうざん)第一(だいいち)」の(しょ)名高(なだか)い。著作(ちょさく)中山伝(ちゅうざんでん)信録(しんろく)」は沖縄(おきなわ)だけでなく日本(にほん)でも(ひろ)()まれた。

「天授山」の扁額

徐葆光より贈呈された「天授山」の扁額


  • 1882年(明治(めいじ)15年)

    名護(なご)()てていた(ばん)松院(しょういん)がいつ首里(しゅり)(もど)ってきたのかは不明(ふめい)だが、1879年(明治(めいじ)12年)廃藩(はいはん)置県(ちけん)により琉球藩(りゅうきゅうはん)沖縄県(おきなわけん)になると、1882年(明治(めいじ)15年)沖縄県(おきなわけん)による社寺(しゃじ)取調(とりしらべ)原書(げんしょ)に、「首里崎(しゅりさき)(やま)(そん)(ばん)松院(しょういん)住職(じゅうしょく) 松峯瑚堂(まつみねこどう)(ばん)松院(しょういん)8(はっ)(せい))」とある。 現在(げんざい)(ばん)松院(しょういん)場所(ばしょ)には当時(とうじ)()徳院(とくいん)臨済宗(りんざいしゅう))』というお(てら)があり、(ばん)松院(しょういん)明治(めいじ)年間(ねんかん)現在(げんざい)場所(ばしょ)(うつ)った。

  • 1945年(昭和(しょうわ)20年)

    沖縄戦(おきなわせん)にて(ばん)松院(しょういん)建物(たてもの)はすべて焼失(しょうしつ)戦後(せんご)徐々(じょじょ)復興(ふっこう)し、1984年(昭和(しょうわ)59年)梵鐘(ぼんしょう)()られた。

  • 1951年(昭和26年)

    首里(しゅり)のあらゆる(ところ)戦没者(せんぼつしゃ)遺骨(いこつ)があった。地域(ちいき)住民(じゅうみん)方々(かたがた)協力(きょうりょく)によって(ばん)松院(しょういん)境内(けいだい)戦没者(せんぼつしゃ)5000柱を(まつ)った。その(まつ)った(とう)を「天衣無縫之塔(てんいむほうのとう)」という。
    1973年(昭和(しょうわ)48年)ごろに、天衣無縫之塔(てんいむほうのとう)(まつ)っていた戦没者(せんぼつしゃ)5000柱を那覇市(なはし)識名(しきな)(げん)識名(しきな)納骨堂(のうこつどう))の『戦没者(せんぼつしゃ)慰霊之塔(いれいのとう)』に(うつ)し、それから(のち)糸満市摩(いとまんしま)()()の『国立(こくりつ)墓苑(ぼえん)』に(うつ)し、合祀(ごうし)された。

  • 2009年(平成21年12月)

    現在(げんざい)伽藍(がらん)(てら)建物(たてもの)(にわ)など(すべ)て)が新築(しんちく)された。
    現住職(げんじゅうしょく) 松久宗(まつひさそう)清和(せいお)(しょう)(ばん)松院(しょういん)13(13)代目(だいめ)住職(じゅうしょく)である。

万松院の本山・妙心寺について

万松院
妙心寺・南門

万松院の本山は京都市右京区花園にある『妙心寺』というお寺です。広さにして東京ドーム約7個分、その境内には40もの塔頭が建つ、とても広いお寺です。臨済宗妙心寺派のお寺は、全国3400ヵ寺もあり、北は北海道、南は沖縄、海外はアメリカのハワイやロサンゼルス、スイスのチューリッヒ、台湾にと国際的に広がっています。インドの菩提達磨大師様から中国の臨済義玄禅師様を経て、妙心寺開山無相大師様へと受け継がれてきた一流の禅を宗旨・教義としている臨済宗妙心寺派の大本山です。


妙心寺派の教え

【生活信条】
一日一度は静かに坐って身と呼吸と心を調えましょう
人間の尊さにめざめ自分の生活も他人の生活も大切にしましょう
生かされている自分を感謝し報恩の行を積みましょう
【信心のことば】
わが身をこのまま空なりと観じて 静かに坐りましょう
衆生は本来仏なりと信じて拝んでゆきましょう
社会を心の花園と念じて和やかに生きましょう

万松院
花園会館(妙心寺のホテル)

詳しくは妙心寺のHPもご覧になってみてください。
また、どなたでもお気軽に宿泊が可能な妙心寺が運営しているホテル花園会館や妙心寺の向かいにある精進料理専門のお店阿じろもご覧になってみてください。
花園会館 http://www.hanazonokaikan.com/
阿じろ http://www.ajiro-s.co.jp/


施設紹介

本堂(3階)

仏さまをお祀りしている場所です。
ここで仏さまにお参りをします。
告別式や法要を行うことができます。
花園会、坐禅会も本堂で行っています。

万松院



式堂(2階)

告別式や法事を行うことができます。
法事を行う場合、法要後に食事の場所としても使用することができます。
写真は法事を行う際の様子です。

万松院


安置室(2階)

お亡くなりになった方をお寺にて安置することができます。

万松院


納骨位牌堂(1階)

遺骨・位牌をお預かりする場所です。
一時預け、永代預けがございます。

万松院


駐車場

万松院境内に1階駐車場と2階駐車場、少し離れた道路沿いに第2、第3、第4駐車場がございます。
第2、第3、第4駐車場は普段は停めることができません。

万松院


外観

万松院


ギャラリー

アクセス・お問い合わせ

臨済宗妙心寺派 天授山 万松院

所在地
〒903-0812 
沖縄県那覇市首里当蔵町3丁目4-1
連絡先
TEL 098-884-5629
FAX 098-884-5729
開院時間
9時から18時まで
納骨位牌堂へのお参りも同じ時間になります

妙心寺